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サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~ 「応仁の乱を考える」 開催報告

早稲田大学エクステンションセンターでは、注目の研究者や専門家をお招きし、現代社会、歴史、人間、科学などのさまざまなテーマで「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」を開講しています。

今回は、国際日本文化研究センター助教の呉座勇一氏が、最新の研究成果を踏まえた応仁の乱の原因、戦闘の実態、社会的影響などについて探っていきます。

国際日本文化研究センター助教 呉座勇一氏
1980年東京生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。同研究科研究員などを経て、現在、国際日本文化研究センター助教。専攻は日本中世史。著書に『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『戦争の日本中世史』(新潮選書・角川財団学芸賞)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『応仁の乱』(中公新書)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)などがある。

 

なぜ今「応仁の乱」が注目されているのか

小学校の教科書にも載っている応仁の乱。誰もが知っている言葉ですが、どんな内乱だったのかきちんと説明できる人はどれくらいいるでしょうか。

講師の呉座勇一氏は『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)を2016年に刊行し、同書籍は現在までで販売冊数約50万部というベストセラーとなりました。

「応仁の乱は、知名度は高いけれど中身を知っている人があまりいない。そのギャップを埋めるために買ってくれた方が多かったのだと思います」と呉座氏。この日は、本には書ききれなかったことを中心に講座を展開していきました。

そもそも、応仁の乱が小学校の教科書に載るほど重要視されはじめたのは、いつ頃なのでしょうか。

大正時代の東洋史家の内藤湖南は、当時の市民向け講演会でこのように話しています。

「今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するには、応仁の乱以降の歴史を知っていたらそれでたくさんです。」

つまり、応仁の乱をきかっけに日本の歴史はがらっと変わったというのです。

ではなぜ、内藤湖南は、応仁の乱が日本史上最大の転換点であると考えたのでしょうか。それは、大正時代に名門や上流階級として残っている家は応仁の乱以後に台頭した家で、応仁の乱以前から存在した名門の家は応仁の乱とその後の戦国時代にほとんど没落してしまっているからです。

このことを、内藤湖南は「日本全体の身代の入れ替わり」と言っています。すなわち、応仁の乱を契機に下の者が上の者を倒す「下剋上」が行われるようになったということです。

ですから、戦後の歴史学においても、応仁の乱は一種の「革命」的なものとして扱われていました。

しかし、呉座氏はこう指摘します。「応仁の乱はすごいという評価が先行してしまって、実際はどういった戦いだったのかが、実はおざなりになっていた。」そこで近年、研究が非常に進んできたといいます。

 

勃発当時、大乱になると予想できた同時代人はゼロ

応仁の乱の発端は、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いだと一般的には考えられていますが、呉座氏によると「近年の研究では、それは主因ではない」とのこと。

注目すべきは、当時有力な大名だった畠山氏。畠山義就と畠山政長の従兄弟同士が、畠山氏の家督になるべく長年争っていました。そこへ、山名宗全が義就を支持し、義就は政長に勝利。細川勝元は政長を擁立していたので、山名宗全と対立関係になります。「これが応仁の乱が起こった最大のきっかけだと、近年では指摘されている」と呉座氏。

つまり、当初応仁の乱は、足利義政にとって「畠山氏の家督争いの延長」でしかなく、危機感が薄かったと考えられるそうです。義政は、京都から義就を撤退させることができれば争いは終結すると考えていました。京都の狭い範囲で戦っていたこともあり、深刻な争いだとは誰も思っていなかったのです。

ところが、応仁の乱最大の激戦「相国寺合戦」で、東軍(細川氏)と西軍(山名氏)の戦力が拮抗していることがはっきりします。戦い始めて半年ほど経っていたことから、互いに陣地を要塞化して守りを固めていたため、一気に攻撃して敵陣を落とすことは不可能になっていたのです。

短期決戦が無理となると、戦いは持久戦になります。

持久戦になると食料の確保が重要となり、補給路の争奪戦に移行していきます。これにより、地方へと戦乱が拡大していき、全国へと波及していったのです。呉座氏は「この結果、応仁の乱が日本史の流れを変える出来事となった」と話します。

 

当時の武士にとって、下剋上は困難

応仁の乱は「下剋上」が注目されがちですが、「実は下剋上はとても難しい」と呉座氏は言います。

西軍の主力だった越前の朝倉孝景は、下剋上に苦労した一人です。

東軍と西軍で拮抗していた戦力のバランスを変えるために、足利義政は孝景に東軍に寝返るよう説得します。それに対し孝景は了解の返事を出すものの、行動には移りません。「この時、京都では東西の戦力は互角でしたが、越前では西軍が優勢でした。裏切者は真っ先に狙われますから、孝景はうかつに動けなかったのです。」

孝景は、「自分を越前守護にするなら寝返ってもよい」と義政に条件を出します。しかし、既に斯波義敏を越前守護に任命しているため、孝景にその地位を与えることは不可能。ですが、義政は「後日越前守護に任命する」と曖昧に伝えて、孝景を東軍に引き入れます。

寝返った孝景は、西軍の主力である斯波義廉の重臣・甲斐敏光と合戦します。この時、孝景は「後日越前守護に任命する」という口約束を引き伸ばされていたため、待っていられず、勝手に「越前国司」を名乗っていました。しかし当時、国司は形骸化していて力がなかったため武士からの支持を得られず、合戦の結果は惨敗。

「自分が越前守護になりたい」と希望する孝景は、当時の越前守護である斯波義敏に下剋上を挑んだことになります。とはいえ、「当時の武士の大多数は、主君に歯向かうのは良くないことだと思っていた」と呉座氏。だから孝景には味方が付きませんでした。下剋上をするのは、当時でも難しいことだったのです。

 

応仁の乱が長期化、大規模化した要因は

現在の山口県や福岡県を領地にしていた西軍の主力で、大内政弘という大名がいました。勃発当初は東軍が優勢だった応仁の乱ですが、政弘が上洛したことで東西両軍の戦力は拮抗しました。

そこで、東軍の足利義政は、政弘の伯父である大内教幸(道頓)を大内氏の家督に任命し、政弘に対し反乱を起こさせます。これが道頓の乱です。

義政は、石見の武士である益田兼尭にも道頓への協力を命じます。しかしこの時、兼尭は既に隠居の身。家督を継いだ息子の益田貞兼は、西軍の政弘方として戦っていました。貞兼は、自分の本拠地が危うくなってきたため、文明2(1470)年に京都から石見に戻ってきます。

道頓が反乱を起こした結果、周りの武士たちは東軍の道頓側に寝返ります。これにより、周囲で西軍についているのは益田氏のみ。益田氏は四面楚歌状態です。

ではなぜ、益田氏だけが西軍に残ったのでしょうか。呉座氏は「益田氏は実はこの頃、周布氏や吉見氏などの周辺武士と領地争いをしていたのです。もし西軍が勝てば、今争っている土地は全部自分のものになる。だから益田氏は踏ん張っていた」と解説します。

しかし、それは西軍が勝てばの話。勝ち馬に乗りたい益田氏は、いつ東軍に寝返るか分かりません。政弘からすると、益田氏が裏切ると山陰地方は東軍一色になってしまいます。

そこで、政弘の重臣である陶弘護は、益田氏と起請文を交換します。その内容は、「益田氏に悪いようにはしない」という内容のもの。そして、益田兼尭・貞兼親子で意見が対立した場合、西軍の貞兼を支援することを約束しました。つまり政弘は、隠居の兼尭が東軍に寝返り、益田家が分裂することも予想していたのです。

それくらい、益田氏は危機的な状況になっていた――普通ならそう考えますが、呉座氏は「益田氏の生き残り戦略の可能性もある」と話します。後で勝った方が負けた方をサポートする約束をして益田氏が東軍と西軍に分かれたのなら、どちらが勝った場合でも益田氏はどうにか生き残ることができるからです。

その後、山陰地方では西軍が盛り返しましたが、全国的に見ると東軍が優勢だったため、益田氏は文明4(1472)年の11月に東軍に転じました。

「応仁の乱の特徴として、京都の戦いと地方の戦いが結びついている。つまり、地方で戦っていても、遠く離れた京都の状況を意識している。その結果、応仁の乱は長期化し、大規模化した」と呉座氏は話します。陰謀や策略により東西両軍の勢力が刻刻と変化する京都での戦況に、地方での戦いも左右されたため、収束の見えない大乱となっていったのです。

 

応仁の乱を知り、大河ドラマ「麒麟がくる」を楽しむ

応仁の乱では、東西両軍の首脳部が、戦いに勝つために実力のある武士を高い地位につける抜擢人事を積極的に行っていました。これについて呉座氏は、「将軍や大名が下剋上を自ら煽っている」と指摘しました。「下剋上が認められるのなら、高い地位に見合った実力を備えていない将軍や大名は、追放してよいということになる。実力さえあれば高い地位につける抜擢人事を推し進めるのは、将軍や大名にとって諸刃の剣です」。この風潮により将軍を頂点とする家格秩序は破壊されていくことになり、応仁の乱以降、戦国時代にかけて下剋上が相次ぎ発生していくのでした。最後の室町将軍である足利義昭が織田信長に追放されたことは良く知られています。

一方で、先述の朝倉孝景のように、実際の下剋上はそう簡単にはいかなかった面もあります。「明智光秀も主君の織田信長を討つという下剋上をしたが、天下を取れず豊臣秀吉に敗れた。何でもありに見える戦国時代であっても、追放ならまだしも主君殺しは武士としておかしいという認識、価値観が色濃く残っていた」。そういったことを知っておくと、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」をより楽しむことができそうです。

 

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