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サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~ 「明智光秀の謎に迫る」 開催報告

早稲田大学エクステンションセンターでは、注目の研究者や専門家をお招きし、現代社会、歴史、人間、科学などのさまざまなテーマで「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」を開講しています。

今回は、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏が、明智光秀の前半生の謎、光秀が織田信長に抜擢された理由、光秀の働き、そして「本能寺の変」の真相について、最新の研究成果などを紹介しながら明らかにしていきました。

 

静岡大学名誉教授 小和田哲男氏

1944年静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。2009年まで静岡大学教育学部教授。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国史。著書に『小和田哲男著作集』(全7巻)、『近江浅井氏の研究』、『戦国三姉妹―茶々・初・江の数奇な生涯―』などがある。

 

時代考証の役割とは

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。その主人公が明智光秀であり、ドラマの時代考証を担当しているのが、講師を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男氏です。戦国史が専門の小和田氏はこれまで、豊臣秀吉の立身出世の物語である1996年の「秀吉」、山内一豊と妻の千代が主人公の2006年の「功名が辻」、直江兼続の生涯を描いた2009年の「天地人」など、多くの大河ドラマの時代考証を担当。「脚本に、史実的な間違いがないかどうかチェックしています」と話す小和田氏。細かいセリフにまで目を光らせているそうです。例えば、「天地人」の中に春日山城で「酒盛り」をするシーンがあり、「越後は米どころ、酒どころ」というセリフがあったそうですが、「現代では新潟県は米や日本酒の産地として有名ですが、戦国時代はそうではありません」と小和田氏は言い、変更を求めたそうです。

「明智光秀は、戦国時代を描いたドラマにはよく登場しますが、信長や秀吉、家康などと比べると、やはり脇役でマイナーな存在です。本能寺の変を起こしたことから、どうしても主殺しの悪人のイメージもつきまといます」

来年の大河ドラマについて小和田氏は「光秀の前半生については史料があまりなく、謎だらけなので、脚本家が想像力を膨らませて描く余地があります」と話しています。

 

光秀とはそもそも何者なのか

明智光秀、明智日向守光秀、あるいは惟任日向守光秀とも呼ばれる人物は、いろいろな史料に登場しますが、実は父親の名前や生年、出身地について、それぞれ複数の説があり、はっきりしていません。そうした史料の一つである、光秀と同時代人の立入宗継が記した「立入左京亮入道隆佐記」には、光秀について「美濃国住人ときの随分衆也。明智十兵衛尉」との記述があります。この記述について小和田氏は「『とき』とは、美濃の守護である土岐氏のことで、光秀は土岐氏の一族というニュアンスがあります」と解説。武士にもいろいろなランクがあり、国人あるいは国衆は専業の武士で、地侍あるいは土豪は「半農半士」です。小和田氏は「光秀は国人と判断していいと思います」とし、ある程度のランクの武士と判断しています。

父親の名前も、系図によって「光隆」「光綱」「光国」と異なり、確定していません。小和田氏は「光綱がふさわしいと考えています」とし、大河ドラマでも「光綱」となるようです。小和田氏は、系図によって違いがあることについて「系図は有力な研究材料で、頭から否定はしませんが、これだけですべてが解決するわけではありません。光秀の父親の名前が系図によって異なるように、系図だけで判断すると間違いが生じます」とし、系図はあくまで傍証史料として扱うことが必要と話しています。

光秀の生年についても、1528年、1516年、1540年という説があります。「1516年生まれだと、67歳という当時としてはかなりの高齢で本能寺の変を引き起こした計算になり、疑問が残ります。1540年生まれでは秀吉や家康と年齢が近くなり、こちらも考えにくい。1528年生まれの蓋然性が高いと思います。いずれにしても、農民出身の秀吉ですら生まれた年がはっきりしているのに不思議です」と小和田氏。面白いのは、どの説でも「ネズミ年」生まれになること。信長が「ウマ年」で、「丹波の鼠、京へ出て馬を喰い」という江戸時代の川柳もあるそうです。

出身地についても、岐阜県恵那市明智町の明知城と、岐阜県可児市広瀬・瀬田の明智城とする説に加えて、最近では、岐阜県の大垣市や滋賀県の彦根市の近くとする説もあります。「可児市の明智城は長山城とも呼ばれ、光秀は長山と名乗っていたこともあるので、可児市の方が可能性は大きいと思います」と小和田氏。明智家は明智荘から出てきているのは間違いないので、可児市であれ恵那市であれ、岐阜県東南部の東濃地域の出身であることは明らかというのが、小和田氏の見解です。

 

朝倉義景に仕えたのはなぜか

有名な桶狭間の戦いの3年後になる1563年の「永禄六年諸役人附」に、明智が足軽衆として登場します。この明智は光秀のことだろうと小和田氏は推測しています。「足軽には雑兵というイメージがありますが、ここでは室町幕府に仕える役人です。史料の後半では、15代将軍になる足利義昭に仕えていたとも記載されていて、朝倉義景に仕えていたことはあり得ると思います」

朝倉家での光秀の待遇について、江戸時代の「明智軍記」では、光秀は500貫で朝倉義景に仕え、鉄砲寄子が100人もいるという重臣クラスになっていますが、「そこまでの待遇ではない」というのが小和田氏の見解。「根拠の一つは、朝倉氏の拠点であった一乗谷を実際に調査したところ、光秀の館が一乗谷の外の『東大味』にあったことです。重臣なら一乗谷の朝倉館の近くに住むはずです。もう一つは『明智軍記』が、史料としてはあまりあてにならないからです。江戸時代になってできた城下町の名前が記載されたりしますから。ただ、朝倉義景に仕えていたことは認めていいと思います」と述べています。

 

光秀が足利義昭と織田信長の橋渡しをしたのはなぜか

小和田氏は「光秀が義昭と信長の橋渡しをしたことは、確かだろうと思います」と話し、朝倉義景が頼りにならないので、細川藤孝と相談して、当時、日の出の勢いで上洛を目指していた信長に乗り換え、信長も渡りに船と応じたのではないかと推測しています。また、光秀と信長の正室である濃姫がいとこの関係にあるので、光秀が間に入ったのだろうとしています。ちなみに濃姫という名前は史料になく、帰蝶が本当の名前で、それを否定する史料もないことから、大河ドラマでも帰蝶が使われることになるとか。「濃姫とは、おそらく美濃から来たお姫様という愛称でしょう」というのが、小和田氏の判断です。

こうして義昭は1568年(永禄11年)7月22日に岐阜に向かい、同年9月26日に信長が義昭を擁して上洛。10月に15代将軍、足利義昭が誕生することになります。翌1569年(永禄12年)正月の本圀寺の変では、光秀は義昭を襲撃した三好三人衆を撃退するのに貢献します。「信長公記」にも記されていて、その後、信長に取り立てられる要因の一つになったと考えられます。

この間の動きの中で面白いのは、光秀が義昭と信長の両方から扶持をもらっていた、つまり両属していたことです。小和田氏は「江戸時代になると『二君にまみえず』となりますが、戦国時代には十分にあり得ます」と説明しています。

 

信長の下での光秀の活躍

光秀の名前が確かな文書に登場するのは、本圀寺の変があった1569年(永禄12年)4月14日付の「賀茂荘中宛の木下秀吉との連署状」が初めてです。当時、光秀は京都奉行を務めていて、義昭と信長の関係も良好でしたが、やがて義昭は、将軍としての実権のない傀儡であることに気づき、信長との間に亀裂が生じます。そうなると、困るのは両属の光秀で、ついには義昭と袂を分かつことになります。

1570年(元亀元年)4月には信長の越前攻めが始まり、「金ヶ崎退き口」の有名なエピソードが生まれます。「これまでは『藤吉郎金ヶ崎退き口』といわれ、秀吉がひとりで守ったとされてきましたが、若狭の史料によって光秀と池田勝正の3人で防いだとわかり、私自身もびっくりしました」と小和田氏。池田勝正は早々に没落し、光秀が本能寺の変を起こしたことから、生き残った秀吉の手柄として語り継がれたようで、「敗者の声を掘り起こすのは、歴史家の役割です」と、小和田氏は語っています。

越前攻めの翌年、1571年(元亀2年)9月には「叡山焼き討ち」が起きます。光秀は焼き討ちをやめるよう主張したといわれてきましたが、「その後の研究で、事実は積極的に信長をサポートしていたことが明らかになっています」と小和田氏。公家の山科言継は日記の「言継卿記」に、堂塔500が焼かれ、僧俗、女性、子どもを合わせて3,000人が殺されたと記しています。

「ところが、ある歴史研究会の懇親会で、ある人から、現場を掘り返しても焼き討ちの痕跡が見つかりませんと言われました。その約3年後に、同じ人から、発掘調査を続けましたが、やはり焼いていませんよと言われたのです」。そこで小和田氏は、ハタと気づいたそうです。「考えてみれば、山科言継は叡山に入っていなかったはずです。大がかりな焼き討ちがあったという噂をもとに、あたかも見てきたように日記に書いてしまったのでしょう。焼き討ちはあっても限定的だった可能性はあったと思います」

小和田氏は「日記や手紙などの史料には間違いはないと思いがちですが、こうした例もあります」と話し、身にしみましたと振り返っています。

叡山焼き討ちのあった年の暮れに、光秀は叡山監視のために坂本城築城を信長から命じられ、城主になるとともに周辺の土地を与えられます。「信長の家臣で初めて『一国一城の主』になったわけです」と小和田氏。その後、光秀は1575年(天正3年)11月から、丹波計略に取りかかり、「信長公記」に、信長の言葉として「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と取り上げられます。「当時、信長の家臣団の中で光秀の評価はトップでした」と小和田氏は言い、その証拠として「京都馬揃え」の総括責任者に指名されたことをあげています。

 

本能寺の変の真相は何か

 

信長の評価が高かった光秀が、なぜ、本能寺の変を引き起したのでしょうか。「従来、最も有力視されていたのが怨恨説です。今の言葉では信長からパワハラを受けて引き起こしたというところでしょうか」と小和田氏。それ以外にも「天下取り野望説」、朝廷や足利義昭、堺商人などの「黒幕説」、そして、最近クローズアップされている「長宗我部元親関与説」などがあります。「私が唱えているのは『信長非道阻止説』です」と小和田氏は言い、①正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画、②京暦(宣明暦)への口出し、③平姓将軍への任官の動き、④現職太政大臣近衛前久への暴言、⑤国師号をもつ快川紹喜の焼殺を、信長の5つの非道としてあげ、1582年(天正10年)6月2日付の「西尾光教宛光秀書状」に「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と書いてあることも、小和田氏は「信長非道阻止説」の一つの論拠としています。

「説はどうあれ、光秀にとって残念だったのは、信長の首を見つけることができなかったことです。首をさらすことができれば、謀反は成功していたでしょうし、山崎の戦いで秀吉に負けることもなかったと思います」と小和田氏。本能寺の変の真相をはじめ、明智光秀は謎の多い人物で、来年に向けて研究者や作家からさまざまな本が出版されるだろうから、それらも含めて大河ドラマを楽しんでほしいと呼びかけ、講演会を締めくくりました。

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「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」は、今後もさまざまなゲストお招きし、開催する予定です。また、過去の開催報告をご覧いただくこともできます。今後のスケジュールおよび開催報告については以下をご参照ください。

早稲田大学エクステンションセンター サタデーレクチャー特設ページ

https://www1.ex-waseda.jp/saturday_lectures

 

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