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「論語」が現代にも生きる意味とは?

 

桜が満開となった4月4日、毎年恒例の「早稲田大学オープンカレッジ修了証書・紺碧賞授与式」を開催しました。

会場の大隈記念講堂には、多くの修了者・紺碧賞受賞者が出席。オープンカレッジにて「論語の世界」を担当する早稲田大学文学学術院の土田健次郎教授による記念講演を実施しました。

「『論語』―今に生きる古典」をテーマにお話しいただいた内容を一部抜粋の上、紹介します。

 

早稲田大学文学学術院教授 土田健次郎氏

1949年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学文学研究科博士課程修了、博士(文学、早稲田大学)。専門分野は、中国思想、日本思想。著書に『儒教入門』(東京大学出版会)、『江戸の朱子学』(筑摩書房)、『論語集注(全4巻)』(平凡社)、『聖教要録・配所残筆』(講談社)などがある。

|日本人にとって身近で愛されてきた「論語」

ついに元号が「令和」に変わり、新時代を迎えました。元号への関心の高まりから、その出典となる古典の存在に光が当てられたのは記憶に新しいところです。「令和」が日本に現存する最古の和歌集「万葉集」から出典されたことを引き合いに、土田教授は中国の儒教における四書のひとつである「論語」について次のように語りました。

「今回の改元で初めて和書である『万葉集』が出典となったことが話題になりました。この反応は、これまでの日本の元号の出典がすべて漢籍であったことの裏返しでもあります。漢籍、つまり中国の古典は日本の歴史・文化に大きな影響を及ぼしてきました。その漢籍の代表例として真っ先に思い浮かぶのは、『論語』ではないでしょうか。実は、この『論語』、これまで一度も元号の出典になったことはありません。『論語』の存在感を考えると意外な感じがしますよね。とはいえ、儒教のもっとも古い古典と言われる『論語』は、その奥深い内容から、古くより日本人にとって自らの人格を形成し、次世代の育成をするにあたって、なくてはならないテキストでした。

たとえば、近世における庶民の教育機関であった寺子屋では、子どもたちが最初に学ぶ本として『論語』が使われ、日本が近代化を成し遂げた明治時代においても、その価値は色褪せることなく、わが国近代資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一も『論語』の愛読者として知られています。最近の身近な例では、昨年、中日ドラゴンズに入団した根尾昴選手の愛読書が渋沢栄一の『論語と算盤』という報道もありました」

 

|「論語」による再教育で社会秩序をもたらしたい中国政府

一方、中国でも、近年は政府が儒教を広めようとする動きがあるそうです。そんな背景もあって、北京に本部を置く儒教の世界的な研究機関「国際儒学連合会」では、今年、論語とゆかりの深い孔子が生誕2570周年を迎えるにあたって活動を活発化させていると言います。その副会長を務める土田教授は、中国政府の思惑について次のように説明しました。

「今年は孔子生誕2570周年に向けて、北京で国際シンポジウムを開催します。その背景としてあるのは、中国政府の意向。かつて中国では、儒教は弾圧されていましたが、現在、急激な資本主義化による社会混乱があるため、儒教によって秩序をもたらしたいという政府の思惑が強いのです。青少年の教育にも、あらためて儒教の経書が取り入れられています」

 

|「論語」の色褪せない価値とは?

ではなぜ、「論語」が古代から現代に至るまで、色褪せない価値を持っているのか、孔子の人物像や「論語」の記述から、土田教授は次のように紹介します。

「『論語』にも登場する孔子は、中国の歴史上、初めて現れた『個人の思想家』でした。孔子は中国古代の春秋時代に生を受けましたが、実は母子家庭に生まれ、貧しい少年時代を送りました。『論語』の中にも『私は貧しかったからこそ、なんでもできるようになったのだ』という孔子自身の言葉があります。その後、実力を発揮して出世を重ねますが、具体的な政策を唱えるタイプではなく、政治の理想的なあり方を思想として追究しようとしました。しかし、中国各地を回りながらもその理想は実現せず、故郷に戻って弟子を育成しながらその生涯を閉じました。

また、『論語』は、実は未完成の書物です。“論語”という言葉は、“言葉の編集”という意味だと考えられます。同じ言葉が2回出てくるケースがあるほか、統一されていない表記も多々あります。つまり、完成度の高い本とは言えません。しかし、中国の古書は完成度が高くなればなるほど歴史的事実から離れ、“作品”に変わっていく傾向にあり、政治的立場から書き換えられるケースもあるのです。その点、『論語』は、記録を積み重ねて作られ、最終的に統一されないまま本になったものと考えられます。未完成だからこそ、生の資料に近い貴重な本といえるのです」

土田教授は、「論語」は、孔子が生身の人間として格闘した思想をそのままの形で、常に読む者に訴えかけてくる本だからこそ、今も色褪せない価値があると説明しました。

 

|現代人が「論語」を学ぶ意義とは?

最後に、「論語」の現代的な意味づけを考える上で参考になる一説(「子路第十三の十八」)を土田教授が解説しました。

“葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者有り、父、羊を攘(ぬす)み、子(こ)之(これ)を証す。孔子曰く、吾が党の直なる者は是(これ)に異なる。父は子の為(ため)に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り。”

原文:“葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之。孔子曰、吾党之直者異於是。父為子隠、子為父隠、直在其中矣。”(『論語』子路)

意味:葉公という人が孔子に語った。「私の領内に直躬という正直者がいて、その父が羊を盗んだ時に、子どもである直躬はそのことを訴え出た。私の領内にはこんな正直者がいるのだ」と葉公は自慢した。孔子はそれに対し、「私の地元ではそんなことはありません。子に悪い点があれば父が隠してやり、父に悪い点があれば子が隠してやるものです。私は、本当の正直さというのは、そういうところにこそあるのではないかと思います」

「ここでは、『正直』という観念に対して、正反対の2つの価値観が示されています。どのような場合であっても、ただ単に正直であればいいのか、親への孝行を優先させるべき場合もあるのかということです。ここで物を盗むという意味として使われている『攘』という漢字ですが、実は『結果的に盗みになったケース』を言い表す言葉です。この語から、直躬の父は迷い込んできた羊をそのまま飼ってしまっただけであり、自ら盗みに行ったわけではないことが読み取れます。つまり、子である直躬は、迷い込んできた羊が結果的に父の物になったことに対して、父は常習的な泥棒でないにもかかわらず、あえて領主にその罪を言い立てている訳で、この行為はあまりに人情からかけ離れている、と孔子は言っているのです。

論語の中には、このような矛盾した事柄を題材とした話がよく出てきます。あらゆる物事は、状況に応じて価値観がぶつかり合い、その都度正しい答えは変わってくるのです。私が教えるエクステンションセンターの講義も、同じテーマであっても毎回どこかが違います。状況に応じて、総合的に一番いい判断をするための徳を積むことを学べるのが、『論語』のよいところです。そうしたことを改めて、現代のあらゆる状況の中で見出すために、『論語』は非常に意味のある本なのです」

 

***

限られた時間の中で、「論語」の奥深さと、現代人が学ぶことの意義について、わかりやすくお話しされた土田教授。エクステンションセンターの講義を通じて学ぶ喜びを体感し、晴れの修了証書・紺碧賞授与式を迎えた大勢の受講生に向けたお祝いの言葉としてふさわしい講演となりました。

エクステンションセンターでは、今後もさまざまな講座を開催予定です。詳細についてはこちらをご覧ください。

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