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サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~ 「憲法とは何か ― 良識に立ち戻る」 開催報告

早稲田大学エクステンションセンターでは、注目の研究者や専門家をお招きし、現代社会、歴史、人間、科学など、様々なテーマを取り上げる「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」を開講しています。

去る2019年2月9日には、「憲法とは何か―良識に立ち戻る」と題し、早稲田大学法学学術院の長谷部恭男教授が登壇されました。

誰しも身近なはずなのに、理解しにくい憲法の解釈について、わかりやすくお話しいただきました。当日の講座の内容を一部抜粋して紹介します。

 

早稲田大学法学学術院 長谷部恭男 教授

1956年広島生まれ。専門は憲法学、公法学。日本公法学会理事長。「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人でもある。近著に『憲法の論理』(有斐閣)、『憲法の良識 「国のかたち」を壊さない仕組み』(朝日新書)がある。

立憲主義の現代的な解釈とは?


「立憲主義」について、長谷部教授は講演の冒頭で、広い意味では法によって「政治権力を制限すること」、狭い意味では「近代立憲主義と呼ばれ、個人の世界観や価値観はさまざまであることをありのままに認めること」を根本として政治権力を制限する考え方と定義しました。

近代立憲主義が広まるまでの中世ヨーロッパでは、カトリック信仰が唯一の正しい価値観だとされており、庶民から教皇、国王に至るまで信仰に従わなければならない社会でした。劇的な変換期を迎えたのは、1517年にドイツの神学者マルティン・ルターが「95か条の論題」を唱えたことに端を発した“宗教改革”が契機でした。

「教会が複数に分裂し、それぞれ自分たちが正しいと思う信仰を押し広げようとした結果、血みどろの戦争が起こりました。こうした状況を見て、宗教や信仰は客観的な物差しではあり得ない。どんな信仰を抱く人でも公平に扱われ、平和に共存できる社会の建設が望ましいという考え方が広まりました。その結果、個人がそれぞれ自由に暮らすべき私的な領域については、それぞれの価値観や世界観に基づく生き方を認めようという社会が生み出されました」

他方で、社会全体の利益に関わる問題として、「幹線道路をどこからどこまで造るか」「子供たちにどんな教育をするか」といった公的な課題について、個人としてどう生きるのが正しいかに関する考えを持ち込むと抜き差しならない対立が生まれてしまいますので、立憲主義の根本にある考え方について各人が理解しておく必要がある、と次のように解説します。

「究極的な価値観に関する自分の主張は一旦脇に置いて、どんな価値観を持っていようとも関係なく、人間らしく暮らせる社会を築くために何が必要か、そうした問題に殺し合いではなく話し合いと多数決で答えを出そうという考え方が、立憲主義の根幹にあります」

 

議論を呼ぶ、「日本国憲法第9条」

長谷部教授は次に、国内でたびたび議論される憲法の中でも、戦争放棄、軍備および交戦権の否認について定められた「日本国憲法第9条」について取りあげました。「日本国憲法第9条」は次のように第1項と第2項から成ります。

 

第1項

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

議論される所以として、この条文が法学者である長谷部教授でさえ若い頃、わかりにくいと思ったほど、世間でも解釈が分かれる内容であることを指摘し。一般的な解釈の傾向について次のように説明します。

「教科書も政府の見解も、第2項は第1項の目的を果たすために『武力を持たない』としているというものです。そのこと自体は自然な解釈なのですが、一方で政府も教科書も、第2項の意味を理解しようとする際、第1項と第2項を分断する。つまり目的であるはずの第1項を単なる枕詞として実際には無視し、第2項にあらわれる「交戦権」や「戦力」等の言葉の意味を個別に明らかにした上で、後からつなぎ合わせるという説明がほとんどです」

しかし、むしろ2つの条文を合わせた9条全体の意味を汲み取ることが大事だと述べる長谷部教授。9条を読み解く鍵として、1928年のフランスとアメリカの発案による世界初の戦争放棄を目的とした国際条約「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン協定)を取り上げました。この条約の成立前における戦争の捉え方は、17世紀に活躍し、国際法の父といわれる法学者のグロティウスが論じた「正戦論」にみてとることができます。

「正戦論は、戦争は正しい理由なくしてはなし得ないという主張です。ところがグロティウスは、戦争は各国がそれぞれ自分こそが正しいと主張し合って戦うものだから、どちらが正しいかは、どちらが勝ったかで決めるしかないとも説いています。シェイクスピアの戯曲に出てくる決闘でも、勝った方が正しく、負けた方が間違っていることになります。つまり、戦争は決闘であったということです。もっとも、戦争は正しい方が勝つというよりは、強い方が勝つものですから、結局これは、強い者が正しいという主張になります」

さらに長谷部教授は、当時の具体的な紛争、戦争を例にとり、それらの正当性を当時の正戦論を基とする国際法上の観点から説明しました。

「1853年の“ペリー来航”によって日本には文明開化の夜明けが訪れますが、先に述べたとおり勝った方が正しいというのが当時の考え方であるため、突然、黒船が浦賀にやって来て、『開国しなさい。さもないとこの大砲で攻撃しますよ』と威嚇したことも、当時の国際法の考え方からすれば問題はなかったといえます。また、日本が韓国で起こした江華島事件で日朝修好条規の締結を押しつけたことも、ペリーと同じことをしただけということになります。また、1846年からの米墨戦争でアメリカは、借金を返さないから等と主張してメキシコに戦争を仕掛けてカリフォルニアに至るまでの広大な領土を奪いましたが、これも当時の国際法的な視点からすると正当です。ただし、メキシコは今もそれを侵略戦争だと主張していますが」

続けて長谷部教授は、人々は侵略や戦争を繰り返した結果、この「勝った方が正しい」という戦争の見方に変化が表れ、前述の「不戦条約」につながったと解説します。「国際紛争を解決するために、つまりどちらが正しいかを決めるための決闘として戦争をするのはやめるべきだ。そして、明白な侵略戦争をはじめた国家がいれば、他国も厳正な中立を守る必要はなく、経済封鎖くらいはしても構わない」と考え方が変わってきたと長谷部教授。

 

日本国憲法第9条の解釈は「不戦条約」の意味を再確認すること

「不戦条約」以降、国際法のトレンドが変わり、そのような背景の中で日本国憲法が制定されました。長谷部教授は、あらためて9条に関わる考え方について、問いかけます。

「第1項は侵略戦争を放棄しているだけという主張もありますが、それでは意味が狭すぎます。国家間の紛争解決の手段として決闘はもうやらない、そのために戦力は持たない、そして決闘のための戦力は蓄えないとしたわけです。一方、仮に日本が他国から侵略されても、それに対応するために武力を行使することはできないという人が少なからず存在しますが、それは冒頭に述べた立憲主義の観点から、無理があると思います。人の価値観や世界観はそれぞれなのに、とにかく非暴力だという、人としてどう生きるのが正しいかに関する特殊な立場をすべての国民に強制することになるからです。」

憲法改正の声も上がる中で、安倍総理大臣は「自衛隊の活動の現状を明記してはどうか」と提言しましたが、抽象的にいうのは簡単なこと。いくつかの追記案として、「自衛隊を置くことを妨げない」といったものもありますが、「それでは権限や活動範囲を法律に丸投げすることになる」と、長谷部教授。また「自衛のための組織を置くことはできる」という条文では、いわゆるフルスペックの集団的自衛権さえ認めることになりかねない。さらに、仮に安倍総理大臣がいうように現状の自衛隊の活動を条項として書き込めたとしても、問題があると指摘します。

「私は自衛隊は、個別的自衛権を行使する組織だと理解していますが、それをあえて憲法に書き込まなかったことには意味があると考えています。9条はその意味が一目瞭然ではありませんが、武力の行使やそのための組織を置くことに対して否定的な条文であることは確かでしょう。それなのに、武力の行使が認められるというのであれば、どんな場合どういう理由で認められるのか、それを国民に説明する必要があり、その説明責任は政府にあります。しかし自衛隊の存在を憲法に書き込んでしまえば、国民に説明することなく武力を行使しても構わないと、政府は言い出しかねません」

続いて、そのような9条の陰に隠れた、自民党による2012年改憲案に示された「緊急事態条項」を取り巻くリスクについて取りあげる長谷部教授。

「これは危ない提案で、発動の要件がとてもあいまいです。首相が必要だと判断すれば緊急事態を宣言することができますし、緊急事態を宣言すると内閣だけで法律を制定したり改変したりすることができるものです。内閣にきわめて強い権限を与えることになります。一方で、最近では、衆議院を解散してこれから総選挙というときに大地震が起きた場合、憲法54条の定める40日以内に総選挙ができなくなるから、それに対応するための条項を制定するべきという意見もありますが、私はその必要はないと考えています。憲法54条の日数の定めは、特別なことがなければ守って下さいという定めです。どうしてもその通りにできないという場合にまで守らなければならないという杓子定規なものではないし、仕方がなく解散後40日を過ぎたあとで総選挙をしたからといって、最高裁がその総選挙を無効だということもないでしょう」

違憲判断をするための「憲法裁判所」を創設するべきか否か

最高裁判所は違憲判断にあまりにも消極的では?と指摘されていることから、「憲法裁判所」を創設するべきという議論がなされていることについて触れられました。現在、“比較憲法学”が世界的なブームで、その種の国際学術会議での話題として、「日本の裁判所はなぜあんなにも違憲判断をしないのか」という疑問があるとのことです。それについて、日米を比較して、また日本の最高裁の現状から次のような見解を述べました。

「アメリカでは、日本と違って、民事法や刑事法等、法の主要分野は州法の管轄になります。そうした広範な州法の分野で誤った司法判断がなされたとき、連邦最高裁がそれを正すためには、その判断が連邦憲法に違反しているという言い方をする必要がある。それに対して、日本の最高裁は違憲審査権も持っていますが、単一国家の秩序の頂点にいるので、法律の解釈が間違っていたり、判例がおかしいというときは最高裁自身、直接それを正すことができます。だから、日本で違憲判断をする必要はもともと少ないのです。もうひとつの理由としては、最高裁が忙しすぎることが考えられます。年間9,000件にのぼる裁判をこなすほど超人的な仕事をしているのが現状です。解決策の一案として、ブラジルなどが取り入れている“第三審裁判所”を現在の高等裁判所の上に設けて、最高裁は“憲法裁判所”として特化することが考えられます。そうすれば最高裁の裁判官は15人もいらなくなるかも知れません」

 

* * *

当日は、100人の定員が満席になるほど受講者が訪れました。後半の質疑応答では、「北方領土問題でロシアが主張することは、グロティウスの論調からすると正当性が認められるのか?」「不戦条約は、現在どんなかたちで引き継がれているか?」といった鋭い質問が投げかけられ、今回の講座のテーマについて深く議論する場面が見られました。

憲法は人の「良識」に基づいており、「法律の言うとおりにして、本当に自分が本来すべきことをすることになるのか。良識に立ち返って自分で考える」ことを提言する長谷部教授。法治国家で暮らす私たちにとって、憲法について新たな気づきが得られる講演となりました。

「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」は、今後もさまざまなゲストお招きし、開催する予定です。また、過去の開催報告をご覧いただくこともできます。今後のスケジュールおよび開催報告については以下をご参照ください。

早稲田大学エクステンションセンター サタデーレクチャー特設ページ https://www1.ex-waseda.jp/saturday_lectures

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