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サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~ 「子どもの生きる力を伸ばす哲学的思考」 開催報告

早稲田大学エクステンションセンターでは、注目の研究者や専門家をお招きし、現代社会、歴史、人間、科学など、様々なテーマを取り上げる「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」を開講しています。

去る2018年12月8日には、「子どもの生きる力を伸ばす哲学的思考」と題し、哲学者・教育学者の熊本大学苫野一徳准教授をお招きしました。

現在、テレビやラジオなどにも引っ張りだこで、教育に関する多くの著書が評判の苫野先生の講演とあって、約160人もの受講生が詰め掛けました。

ご自身の経験から、子どもを伸ばすために必要な哲学的思考の重要性について語られた内容を一部抜粋して紹介します。

 

熊本大学 苫野一徳准教授

早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(教育学)。哲学者・教育学者。著書に『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)、『教育の力』(講談社)などがある。

 

子どもにとって哲学が必要という思いは、自身の経験から

冒頭で、何事にも「なぜ?」という探究心を持つ子どもたちの思考は、哲学的であり、それゆえすぐれた哲学的思考は子どもたちにとってもとても役に立つと語る苫野先生。その考えに至ったきっかけは、自身の子ども時代に心を病んだ辛い過去と、やがて哲学に出会い、目の前の霧が晴れるような気づきを経験したことにあるといいます。

「なぜ生まれてきたのか?」「生きるとは何か?」と本気で悩むような哲学的な子ども時代を送っていたという苫野先生。子どもの頃から友達がいないことが重くのしかかり、ずっと周りの世界と折り合えないような状態の中で生きてきたが、高校時代にはとうとう躁ウツ病に見舞われることになります。

「長いウツ状態のあと、ある時、突然笑いと涙が止まらなくなるという状態が丸二日も続いたのです。『苫野発狂』と、高校でちょっとした事件となりました(笑)」

それが初めての躁経験。以来、鬱屈していた内面が浄化され、一転、世界に受け入れられているという全能感に包まれるようになったといいます。躁ウツは、以来約8年間続くことになりました。

幸せな気分になった苫野先生は、後に入学した早稲田大学でサークルを作ります。子どものための国際交流事業を開催し、子どものうちから多様な人と交流する機会を作る活動に奔走。そしてその頃、人生最大の躁状態がやってきた苫野先生は、当時の自身を次のように語ります。

「ある時、突然“人類愛”の啓示を受けたんです(笑) 過去、現在、未来の全ての人類が、互いに結ばれ合い、愛し合っている映像が、本当に目の前に見えました。ものすごい興奮状態を味わい、それをまわりに伝えるようになったところ、やがてそれが宗教化し、多くの“信者”が集まったのです(笑) でもその後また何度目かの特大ウツがやってきて、“教祖様”を続けるわけにいかなくなりました。そこで今度は“人類愛”の哲学を作りたいと思い大学院に進み、いろんな哲学者を研究するようになりましたが、“人類愛”という、当時は真理と信じて疑わなかったものに凝り固まっていたので、当時は哲学の何たるかを全く理解できていませんでした。」

 

哲学への理解が、世界や物事を明るく見るきっかけに

ところが、後に恩師となる哲学者・竹田青嗣先生(早稲田大学名誉教授)の『人間的自由の条件』を読んだ後、世界が崩壊するような衝撃を受けたと話す苫野先生。

進歩主義や主体性を重んじる近代主義や啓蒙主義を批判し、そこから脱却しようとする「ポストモダン思想」が、70年代から90年代にかけて世界の哲学を席巻。それからは、あらゆる近代的価値が相対化されるようになりました。それに対しモヤモヤした思いを抱いているなか、竹田先生の著書を読んだことで、近代社会の最も重要な原理である「自由の相互承認の原理」にたどり着き、人生を変える1冊になったと語ります。

「『人間的自由の条件』には、“物事を相対化ばかりする論理は、結局は何も生み出せない”ということが書かれており、そこに深く共感するものがありました。たとえば、“どんな社会を作るか?”というアイデアに対し、“それは間違っている”といった論法だけで返してしまうと、我々は対話も考えることの希望も失います。竹田先生はそうしたポストモダンの論法に巻き込まれないような非常に原理的な思考を打ち出し、次なる社会のビジョンを示していたことに胸を打たれました。」

その後も、竹田先生が打ち出した「欲望相関性の原理」に深く共鳴したという苫野先生。これは、20世紀ドイツの哲学者エトムント・フッサールが提唱した「現象学」を応用したもので、「我々の認識はすべて我々の欲望に相関的に表れている」という原理です。

「たとえば、水ひとつとっても、我々の欲望に応じてその意味や価値が変わります。喉を潤したいならそれは飲み水としての意味を持つし、火事があったら火を消すためのものに変わります。あらゆるものは、我々の欲望の色を帯びるのです。言われてみれば当たり前ですが、ここで大事なのは、欲望は、私たちが自覚できる最後の底板だということ。フッサールの弟子ハイデガーの有名な言葉に、“然り、気分は襲ってくるのである”というのがありますが、これは、私たちは本質的に気分存在であり、なぜそのような気分を持っているのかは究極的には分からないけれど、気分存在であるというそのこと自体は疑うことができないのだということを意味しています。」

 

頑なだった心が哲学で溶かされ、本格的に哲学の道へ

哲学と出会い、その深い意味を知れば知るほど、これまでの偏った考えが溶けていくことを実感したそうです。ソクラテス以来、「ここまで突き詰めれば誰もが納得する」というところまで、奥底の答えにこだわるところが、哲学の本領だと苫野先生は語ります。哲学に惹かれるうちに理性が勝り、哲学の真髄がわかってきたといいます。

子どもの頃から孤独を抱え、「誰も理解してくれない」「理解されてたまるか」という思いを抱いていましたが、その奥底には、「本当は理解して欲しい」「愛して欲しい」という欲望があり、その欲望から反動的に“人類愛”というビジョンに行き着いたと、当時を振り返る苫野先生。「欲望相関性の原理」を深く自分のものにすることで、そのような「自己了解」にたどり着きました。以来、躁ウツの症状は限りなく消失しました。

「思想家や哲学者は、誰もが人類愛に目覚めた人でなければならないとかつては本気で考えていたのですが、そうではありませんでした(笑) 哲学とは、まずは自分をとことん見つめなおし、『自己了解』を深め、また『自己吟味』が必要な作業だということを思い知らされました。」

恩師の竹田氏はその後、早稲田大学で教鞭をとるようになり、門を叩いて弟子としてさまざまな教えを得ることになった苫野先生。竹田先生のもと、プラトンから最新の現代哲学まであらゆる哲学書を片っ端から読んで議論を重ねる修行をしたおかげで、哲学がこれまで何を問題とし、どのように解き明かしてきたかがよくわかるようになり、ますます哲学に傾倒していきます。

とりわけ、フッサールに加えて、近代哲学の完成者などとも言われるヘーゲルに大きな可能性を見出します。

「ヘーゲルは、“我々はみんな自由を求め、自由に生きたいと願っている”と述べていますが、これは非常に優れた洞察です。そもそも不自由に生きたい人なんていません。そして自由への欲望は、かならず価値ある自分になりたいという『自己価値欲望』となり、そしてそんな自分を承認して欲しいという『承認欲望』に発展します。ところが、これが厄介で、そう簡単に人から承認はされないものです」

そのため私たちは、「承認」を求めてさまざまな仕方で“あがく”ことになる。ヘーゲルは、その“あがき”のプロセスとして次の3つの類型を描き出しています。

1.自己意識の自由

「自分の自由を自分だけで守ろうとする類型です。その中には、“俺は俺、他人の評価なんてどうでもいい!”といった思春期の若者にありがちなストア主義とヘーゲルが呼ぶものがありますが、実はその奥には承認欲求があるから辛いわけです。また、スケプシス主義とヘーゲルが呼ぶ類型もあって、これは、何もかもを批判したり疑ったりする懐疑主義のこと。人を批判することで自分の自由を守ろうとし、優位に立つ精神を指します。でもこれもまた、本当はちょっと生きづらい。最後に不幸な意識というのもあって、これはいわば虎の威を借る狐です。自分はあの有名人と知り合いなんだよ、なんて言って、自分の優位性を主張するような人。でもこれもまた、すごいのは自分じゃないので、不幸なわけです」

2.理性

「自分の自由を自分だけで守ろうとする段階から、やがて『理性』とヘーゲルが呼ぶ段階へ展開していきます。自分だけでなく、他者との関係の中で承認を得ようとしていくフェイズです。これには、恋愛関係などにおいて承認を得ようとする『快楽』、また、人類愛が典型ですが、自分にとって正しいことは他者にとっても正しいことのはず、と信じるような、素朴なロマン主義としての『心胸の法則(むねののり)』、自分にとっての真実が他者にとっての真実ではないと知ったときに、正義感を掲げて他者を否定したり攻撃したりする『徳の騎士』の3つの類型があります。」

3.相互承認の精神

「こうして、承認・自由を求めてさまざまな“あがき”を経て、人間がたどり着ける最高境地。それを、ヘーゲルはこれまた独特の意味を込めて『良心』と呼びます。一言で言うと、『相互承認の精神』です。自分にとっての正しさや価値は、他者にも承認されたときに初めて正しいと言いうる。そのことを深く自覚した精神です。人類愛の教祖様崩れだった私の胸に、これは本当に深く突き刺さりました。ストア主義から徳の騎士まで、私はこれまでに全部を経験しましたが、そうか、それもこれも、つまりは承認を求めていたからであり、そしてそれは、自分の価値を独りよがりに主張していても得られるものではないんだと骨の髄まで感じ取ったのです。ただし、当たり前ですが全ての人から承認されるなんてことはありません。だから、これは常に『相互承認』を目指す精神ということです。この意味を理解し、私の頑なだった心が砕け散りました。さらにヘーゲルがすごいのは、この『相互承認の精神』、『良心』の境地にたどり着いてもなお、最後に『批評する良心』と『行動する良心』に分かれて戦いが起きるというのです。いつの時代にも、行動する人に対し批判ばかりする人はいますが、それと同じイメージ。でも、やがて批判する人の頑な心が砕け散ります。なぜなら、批判する人も実は『相互承認』を求めていることに気づくから。そして批判する良心と行動する良心が認め合い、最後の相互承認に行き着くというストーリーで、私はこれに深く感銘を受けました。」

こうした理解を機に、それまで“人類愛”を真理と考えていた教祖様崩れは、多様で異質な人たちが、どうすればお互いを認め合えるような社会を作れるかを探究する哲学者へと変貌していったそうです。

 

身近な悩みや葛藤に使える哲学

自分の欲望をきちんと自覚し、自分と折り合いをつけることで、幸せな道を見出せるという大きな気づきを得た苫野先生。次に、幸せのヒントとして、ジャン・ジャック・ルソーの思想「不幸とは欲望と能力のギャップである」を紹介しました。

「不幸の本質がわかれば、どうすれば不幸から逃れられるかという原理がわかります。一番いいのは能力を上げることですが、そんなに簡単な話じゃない。意外に気づきにくいのは、欲望自体を変えること。私はかつてミュージシャンになりたかったり小説家になりたかったりしたのですが、もちろんなれなくて、やっぱり不幸を感じていました。でも哲学に出会って、欲望が変わりました。今は哲学に生きたいと思っています。」

 

 

子どものための「哲学対話」のすすめ

子どもとの哲学対話で大事なのは、「ここまでいけば共通了解が得られる」という経験を子どもの頃からたくさん積むことだと語り、各自の持論を展開し、発言したままで完結しがちな教育系のシンポジウムの例を引き合いに、対話する上での“共通了解”の大切さについて紹介します。

「大事なのは、どの次元まで『共通了解』が得られるかということです。もちろん、絶対の真理はありませんが、ここまでならみんなが納得できるというところまで対話することは可能です。子どもたちの間でもそれは可能です。たとえば、“友情とは何か?”という問いに対して、子どもたちはちゃんと共通了解を導き出せます。もちろん、最初のうちは哲学者のファシリテーターがいた方がいいですが。よく、対話をするだけして、何の共通了解にもたどり着かず、“でも話し合えたことに意味がある”なんて言って終わる対話の会がありますが、それだと、どんなに対話を重ねても結局は何の解決も得られないものなのだと、対話への希望を失ってしまうでしょう。」

さらに、子どもと哲学対話をする上での大事なポイントについて語りました。

文学や音楽、映画でお互いの価値観・感受性を確かめ合う

「みんなで文学作品を読んだり、音楽や映画などを観たりして人と感想や意見を交換することで、自分の価値観や感受性を確かめることができます。さらに、ほかの人との考え方の違いを感じることで他者を認められるようになり、自分への理解も深まります。そして重要なのは、本当に優れた作品は、その本質を言葉にできるということです。人それぞれ、好き嫌いはあっても、確かにこの作品が優れていることは認めざるを得ない、という作品があります。ではそれは一体何が優れているのか。その『共通了解』を見出し合う対話はとても意義深いものです。」

身近なテーマで「本質観取」をしながら議論を進める

「“幸せとは何か”“正しさとは何か”といった、身近な興味のあるテーマで子どもたちと話し合うこともおすすめします。『本質観取』と言います。もちろん、絶対に正しい本質はありませんが、言葉のコミュニケーションを通じて、やはり共通了解を見出し合うことが大事なのです。お互いの経験を交換しながら言葉を的確なものにしていく作業によって、『本質観取』ができるようになります。物事の本質を見出し合うことが哲学の本質なので、そのマインドで大人が上手にファシリテートしながら、子どもたちと対話してみてください。生きる力を伸ばす哲学的思考が育まれるはずです。」

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子どもたちとの対話はもちろん、人生をよりよく生きるヒントとして哲学を学ぶ意義を体感できた今回の「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ」。

身をもって哲学が人生に与える気づきと喜びを語る苫野先生の言葉は、ひとつひとつ重みと説得力がありました。

「サタデーレクチャー ~早稲田の杜の教養シリーズ~」では、今後もさまざまなゲストによる講座を開催予定です。次回以降は以下の開催を予定しています。どうぞお楽しみに。

2019年3月9日 (土) 17:00 – 18:30 「小説を書くということ」 文芸編集者・法政大学講師 根本 昌夫先生 ⇒ 詳細はこちら

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